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【岩手県】地名由来は郡名で、岩手山によって生まれた地形にちなむ

岩手県の地名由来は古代からの郡名で、地形にちなんで命名か

岩手県の名称は、県庁所在地が岩手郡(のち南岩手郡) 盛岡に置かれたため、その郡名に由来している。
設置当初は、盛岡の名を取って盛岡県だったが、明治5年1月8日に郡名由来の岩手県に改称した。

岩手」という名の由来は、岩手郡の中心部を含む北上平野周辺の地形だ。

北上盆地西部には、岩手富士・南部富士の別名で知られる岩手山がある。
岩手山は火山で、太古には噴火や山体崩壊などが幾度もおこっていた。

そのときの土砂や岩石・火山灰などによって生まれた地形を「岩手」と呼んだことが岩手の地名由来と推測される。

岩手は現在「いわて」と読むが、古くは「いわて」とも「いわで」とも読まれていた。

「いわ」は「岩」の意味とされるが、「て」「で」は2とおりの解釈がある。

  • もともとは「て」で、「て」は場所を意味する「と」が変化したもの。つまり「いわて」=「岩がちな場所」「岩の多い場所」の意味
  • もともとは「で」で、「いで(出で)」の「で」。「いわいで(岩出で)」が変化したもの。つまり「いわで」=「山から出てきた岩によって生まれた地形」の意味

どちらも地形とその成立過程に合うものだ。

ちなみに、岩手山の名よりも岩手の地名のほうが先に生まれたと考えられる。

なお、岩手の地名由来にはこのほかにも諸説あるが、いずれも伝承的なものとなっているので割愛したい。

岩手郡は940〜950年ごろの成立か

岩手郡は陸奥国(むつのくに=おおむね福島・宮城・岩手・青森県)の郡として古くからあった郡。
しかし、ずっと昔からあったものではない。

平安時代前期に、征夷大将軍の坂ノ上 田村麻呂(さかのうえ たむらまろ)の軍が陸奥国の北部に侵攻し、ヤマト朝廷の勢力圏が陸奥国北部へと広がっていった。

やがて、陸奥国北部に「奥六郡(おくろくぐん)」として新しく6つの郡が設置される。
岩手郡はこの6郡のひとつとして誕生したといわれている。

天暦5年(951年)に書かれた『大和物語(やまと ものがたり)』に「陸奥国、磐手の郡よりたてまつれる御鷹」とある。

いっぽう、承平年間(931〜938年)に完成した、全国の国名・郡名・郷名を記載した『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう=和名抄)』には、奥六郡の記載はない。

そのため、940〜950年ごろに岩手郡などの奥六郡が成立したと推測される。

岩手県が生まれた経緯

明治維新から、府藩県三治制・廃藩置県を経て現在の岩手県の名称と区域が確定するまでは、かなり複雑な経緯をたどっている。

以下にまとめてみた。

府藩県三治制時代

大政奉還後、慶応4年の閏(うるう)4月21日に「府藩県三治制」が施行されて、江戸時代の大名領を「」とすることになった。

それまで大名領を「藩」と呼ぶのは一部の識者が呼んでいた通称であったが、府藩県三治制によって「藩」が正式名称になったのである。

また、明治元年に陸奥国(むつのくに)・出羽国(でわのくに)が広大すぎるとして、分割することになる。

陸奥国は陸奥国(りくおうのくに)・陸中国(りくちゅうのくに)・陸前国(りくぜんのくに)・岩代国(いわしろのくに)・磐城国(いわきのくに)の5ヶ国に分かれた。

現在の岩手県域には、以下の藩の領地があった。

  • 盛岡藩 (藩庁:陸中国 岩手郡 盛岡城下=現 岩手県盛岡市)
  • 一関藩 (藩庁:陸中国 磐井郡 一関城下=現 岩手県一関市)
  • 仙台藩 (藩庁:陸前国 宮城郡 仙台城下=現 宮城県仙台市)
  • 八戸藩 (藩庁:陸奥国 三戸郡 八戸城下=現 青森県八戸市)

しかし、明治元年12月に盛岡藩は、陸奥弘前藩・信濃松代藩・信濃松本藩などの管理下に置かれることになってしまう(のち弘前藩の代わりに下野黒羽藩に変更)。

これは、幕末期に盛岡領の南部氏が「奥羽越列藩同盟」の加盟し、幕府側に味方したためとされる。

翌明治2年4月、盛岡藩領のうち、松代藩管理地を盛岡県、松本藩管理地を花巻県、黒羽藩管理地を三戸県へ改称する。
府県藩三治制での県は、明治新政府直轄地である。

しかし同年7月、ふたたび3県が統合されて盛岡藩が復活した。
幕末期に藩主だった南部氏も、藩知事として復帰している。

同年8月には、気仙郡(けせんぐん)・江刺郡(えさしぐん)・閉伊郡(へいぐん)の全域と和賀郡(わがぐん)の一部が、政府直轄地の江刺県(えさしけん)になる。

また、胆沢郡(いさわぐん)全域と磐井郡の一部も政府直轄地の胆沢県(いさわけん)となった。
磐井郡の残りの部分は、一関藩領として残る。

さらに同じ明治2年8月に設置された政府直轄地の九戸県(くのへけん)は、現在の岩手・青森・秋田3県にまたがる県だった。

この九戸県域で、現在の岩手県にあたる地域は、二戸郡全域と、八戸藩領を除く九戸郡。
しかし、明治2年9月13日に八戸県(さんのへけん)に改称。
さらに同9月19日に三戸県(さんのへけん)へ短期間で再改称した。
八戸藩と混同するためと推測される。

同年11月28日、二戸郡の北部は斗南藩領(現 青森県の一部)になり、残りは江刺県に編入合併し、三戸県は消滅している。

翌明治3年7月、盛岡藩は財政が破綻したため、藩知事の南部氏が辞職届を提出した。
これを受けて再び政府直轄となり、盛岡県(第二次)となる。

廃藩置県直後の時代

明治4年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県が施行された。
一関藩は一関県に、八戸藩は八戸県となる(このときの八戸県は、九戸県が改称したものとは別の県)。

もともと県であった盛岡県と江刺県は、そのまま同じ名称・範囲で新しい盛岡県(第三次)・江刺県に。

同4年、八戸県は弘前県の一部を経て、青森県の一部となる。

また同年11月2日、江刺県のうち、閉伊郡と和賀・九戸郡の各一部は盛岡県に移管。
同じく江刺県のうち、江刺・気仙郡は一関県に移管。
さらに、胆沢県も一関県に移管となった。

胆沢県の二戸郡南部は青森県となる。
なお、二戸郡北部の斗南藩領は、同じ明治4年に斗南県に、さらに弘前県を経て、同年9月に青森県となった。

同じく明治4年11月2日、八戸県から青森県になっていた九戸郡(くのへぐん)と紫波郡(しわぐん)の一部が、盛岡県に移管となる。

さらに明治4年12月、一関県は水沢県に改称するも、明治8年には磐井県へ再改称。

そして明治5年1月8日には、盛岡県が岩手県に改称する。

明治9年(1876年)4月になると、岩手県は磐井県のうち、陸中国となる胆沢・江刺・磐井郡を編入合併した。

このとき、磐井県のうちの陸前国となる気仙・本吉(もとよし)・登米(とめ)・栗原・玉造(たまつくり)の5郡は宮城県に移された。

しかし同明治9年5月には、宮城県から気仙郡、青森県から二戸郡が岩手県に移管される。
これによって、現在の岩手県の区域が成立した。

その後、明治12年(1879年)1月には、岩手郡が南岩手郡・北岩手郡に、磐井郡が西磐井郡・東磐井郡に分割される。
県庁所在地の盛岡町は、南岩手郡に属した。

明治22年(1889年)の市制町村制施行により、同年4月1日に南岩手郡 盛岡町が市制施行し、盛岡市となる。

なお、明治30年(1897年)4月1日には、南岩手郡と北岩手郡が合併して、新しい岩手郡が誕生している。

岩手県の地名に関する情報

現在の庁舎所在地 盛岡市
地名命名パターン 郡名由来
地名発祥時期 平安時代中期 (940〜950年ごろ)
現都道府県の設置時期 明治4年7月14日:盛岡県として設置
明治5年1月8日:岩手県へ改称
明治維新時のおもな管轄 盛岡藩、一関藩、八戸藩 、仙台藩
範囲内のおもな旧国 陸奥国(むつのくに)、陸中国、陸前国(気仙郡)
庁舎所在地の変遷
岩手郡(南岩手郡) 盛岡町 (盛岡市)
明治4年7月14日

参考資料

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