もくじ
群馬県の県名は県庁が所在する郡名に由来
群馬県の県名は、県庁の所在する郡名に由来している。
明治9年(1876年)8月21日、現在の群馬県が成立。
県庁を群馬郡(ぐんまぐん) 高崎城下(現 高崎市中心部)に置いたため、郡名を取って群馬県と命名された。
しかし、明治14年(1881年)に県庁は東群馬郡 前橋城下(現 前橋市中心部)に移転。
以来現在まで前橋が群馬県庁となっている。
ちなみに、群馬郡は明治11年(1878年)に西群馬郡・東群馬郡に分かれ、高崎は西群馬郡、前橋は東群馬郡に属した。
県庁をめぐり同じ群馬郡の高崎・前橋が対立
実は、群馬県は過去に2度設置されている。
現在の群馬県は第2次群馬県だ。
第1次群馬県は、廃藩置県から約3ヶ月後の明治4年(1871年12月10日)に設置。
このとき、県庁は第2次と同じく群馬郡 高崎城下だった。
高崎の所在郡名を取って群馬県と命名されている。
その後、明治5年6月15日(1872年7月20日)に、県庁が高崎から同じ群馬郡の前橋城下に移転した。
なお、第1次群馬県と第2次群馬県のあいだの時期に、現 埼玉県熊谷市(くまがやし)に県庁を置く熊谷県(くまがやけん)が設置され、群馬県の大部分が熊谷県の管轄になった。
このとき県庁の支庁舎が前橋に置かれる。
しかし、その後に高崎に移転した。
第1次群馬県の県庁、熊谷県の支庁、第2次の群馬県の流れの中で、県庁や支庁が高崎→前橋→高崎→前橋と移転している。
前橋と高崎は、このときからすでに対立関係にあって不仲だったのだろうか。
このあたりの経緯は後述する。
ちなみに江戸時代、前橋は前橋城の城下町、高崎は高崎城の城下町として栄えた町だ。
前橋城は前橋大名領(前橋藩)、高崎城は高崎大名領(高崎藩)の拠点であった。
群馬の名は古代の郷「群馬郷」が起源。昔の読みは「くるま」
群馬県の県名は群馬郡に由来していると紹介した。
では、群馬郡の由来は何か気になるだろう。
群馬郡は、実は上野国(こうずけのくに)に古代より続く古い郡。
そして群馬郡の名前は、郡内にあった「群馬郷」から来ているといわれている。
平安時代前期に、国内の国・郡・郷を記載した書物『和名類聚抄 (わみょう るいじゅしょう:和名抄)』にも群馬郷が載っている。
古代の群馬郡・群馬郷は現在と読みが異なっていて、群馬と書いて「くるま」と読まれていた。
また、古くは漢字一字の「車」をあてることもあったという。
さらに「車馬」との表記も見られた。
なお、古い地名は漢字が導入される以前からあったため、地名の漢字は当て字のものが多い。
「くるま」も同様と考えられる。
その群馬郷の場所だが、現在の前橋市西部から高崎市東部にあたると推測されている。
前橋市の元総社地区・総社地区周辺、高崎市の国府地区周辺だ。
ちょうど前橋市と高崎市の境界地帯が、群馬の地名発祥推定地なのだ。
このあたりは、上野国の中枢であった。
国衙(こくが)や国分寺、総社などの重要な施設があった地域だ。
ただし、古代の郡を管轄する郡衙(ぐんが)は、現在の高崎市本郷地区に設置されたようである。
群馬の地名由来には「部民(車持部)」説と「地形(河川形状)」説がある
群馬郷の地名発祥推定地がわかったところで、次に気になるのが「群馬」という地名の起源だろう。
群馬の地名の起源にはいくつか説があるが、有力なのが以下の2説。
- 部民の車持部に由来する説
- 地形の河川形状に由来する説
どちらも有力な説で、判別が難しいところ。
順に各説を紹介したい。
「部民=車持部」説
部民(べみん)とは、古代の大和朝廷の制度だ。
同じ職業の集団を各地に居住させ、仕事に従事させた。
さまざまな職業の部民が存在し、多くは「○○部(べ)」と呼ばれている。
(厳密には職業以外の集団もいるが、割愛)
部民説は、群馬はかつて車持部(くるまもちべ、くらもちべ)という部民が居住していた地域で、それがそのまま「くるま」という地名として残ったという説だ。
車持部は、大和朝廷が使用する輿(こし)という車両を製造・管理していた部民といわれている。
また、少し西に離れたところ、榛名山南麓の高崎市十文字地区には「車持神社」もあることから、部民の車持部由来説は信憑性がある。
なお、部民が居住していた地が、そのまま地名になったところも多い。
部民は、645年からの「大化の改新」で廃止になった。
しかしその後も地名として名前が残っていたり、名字にもなって今も残るものもある。
たとえば、鳥取県・鳥取市の名になっている「鳥取」は、「鳥取部(ととりべ)」という鳥を捕って献上したり飼育したりする部民が由来だ。
鳥取部が居住していた地域が、部民制廃止後も地名として残ったといわれている。
同じく服部(はっとり)は、「機織部(はたおりべ、はとりべ)」という機織りをしていた部民に由来する。
機織りは衣服をつくる作業なので、「服部」と書いて「はたおりべ、はとりべ」と読むようになり、服部が居住していた地域が地名として残ったのだ。
やがて「べ」の音が発音されなくなり「服部」と書いて「はっとり」となり、今も地名や名字として残っている。
「地形=河川形状」説
群馬の地名由来のもうひとつの説が、地形説。
群馬の古代の読み「くるま」の「くる」は、現在「くるまる」「くるむ」「クルクル」「クルリ」などの「くる」の元となった言葉だ。
城を構成する部分に「曲輪(くるわ)」というものがあるが、これの「くる」の元の言葉でもある。
古い日本語で、丸くなっている状態を指すのが「くる」。
そして「くるま」の「ま」は、場所や土地を意味する接尾語だ。
つまり「くるま」は「河川が蛇行し湾曲した場所」という意味の地名である。
群馬郷の推定地である元総社・総社・国府地区の東には、「坂東太郎」と呼ばれ暴れ川として知られていた大河川・利根川が流れている。
さらに、支流の滝川や染谷川も流れるという土地だ。
現在は土手の整備などがされているが、昔は蛇行して流れていただろう。
このような地形を表したのが「くるま」と思われる。
地形面の合致からも、地形説は有力だ。
群馬県が生まれた経緯
大政奉還後、慶応4年6月17日(1868年8月5日)に明治新政府によって群馬郡 岩鼻村(いわはなむら)の旧 江戸幕府代官所に県庁を置く「岩鼻県(いわはなけん)」が設置される。
岩鼻県は、上野・武蔵国内の旧 江戸幕府直轄地と旗本知行所、寺社領などを管轄した。
そのほか、現在の群馬県域には多数の大名領があった。
明治2年、府藩県三治制が実施され、現 群馬県域に拠点を置いていた8の大名領は藩になり、岩鼻県は吉井大名領を併せたうえで継続になる。
そして、明治4年7月14日(1871年8月29日)に廃藩置県が実施され、現 群馬県域に拠点を置く以下の県が誕生した。
名称 | 庁舎 | 前身 |
---|---|---|
前橋県 | 群馬郡 前橋城下 (現 前橋市) | 前橋藩 (前橋大名領) |
高崎県 | 群馬郡 高崎城下 (現 高崎市) | 高崎藩 (高崎大名領) |
七日市県 | 甘楽郡(かんらぐん) 七日市町 (現 富岡市) | 七日市藩 (七日市大名領) |
小幡県 (おばたけん) | 甘楽郡 小幡町 (現 甘楽郡 甘楽町) | 小幡藩 (小幡大名領) |
安中県 (あんなかけん) | 碓氷郡(うすいぐん) 安中城下 (現 安中市) | 安中藩 (安中大名領) |
伊勢崎県 | 佐位郡(さいぐん) 伊勢崎町 (現 伊勢崎市) | 伊勢崎藩 (伊勢崎大名領) |
館林県 (たてばやしけん) | 邑楽郡(おうらぐん) 館林城下 (現 館林市) | 館林藩 (館林大名領) |
沼田県 (ぬまたけん) | 利根郡 沼田城下 (現 沼田市) | 沼田藩 (沼田大名領) |
岩鼻県 (第2次) | 群馬郡 岩鼻村 (現 高崎市) | 江戸幕府直轄地(岩鼻代官支配所) 吉井大名領、ほか旗本知行所、寺社領など |
上記は、すべて現 群馬県域に県庁を置いた県だが、これ以外にも現 群馬県域外に県庁を置いた県の管轄下に置かれた地域もあった(飛地・遠隔地)。
たとえば、以下のような県の飛地・遠隔地があった。
- 佐野県 (旧 下野佐野藩、現 栃木県佐野市に県庁)
- 岩槻県 (旧 武蔵岩槻藩、現 さいたま市岩槻区に県庁)
- 大泉県 (出羽大泉藩・庄内藩、現 山形県鶴岡市に県庁)
- 泉県 (陸奥泉藩、現 いわき市に県庁)
- 淀県 (山城淀藩、現 京都市伏見区に県庁)
しかし、廃藩置県直後の7月中に岩鼻県知事の青山貞(あおやま ただす)が上野国全域を管轄する「上野県(こうずけけん)」の設置を政府へ願い出た。
これを受けて、約3ヶ月後の明治4年(1871年12月10日)にさっそく統合がおこなわれる。
上野国の南東端にあたる山田・邑楽・新田(にった)の「東毛三郡」が栃木県の管轄に。
残る上野国の範囲が一県となり、群馬郡 高崎の旧 高崎城に県庁を置いて「群馬県 (第1次)」が誕生した。
『日本歴史地名体系』によれば、当初は県庁所在都市名を取って高崎県にする案が有力だったが、それでは「差し支えがある」との意見が出、高崎・前橋ともに群馬郡であることから、郡名を取って群馬県にしたとのことだ。
だが翌明治5年6月15日(1872年7月20日)に、旧 高崎城は兵部省(ひょうぶしょう=軍を管轄する省庁)が譲渡され、県庁は群馬郡 前橋の旧 前橋城に移転する。
さらに1年後の明治6年(1873年)6月15日、入間郡(いるまぐん) 川越城下(現 埼玉県 川越市)に県庁があった入間県と群馬県が合併。
大里郡 熊谷町(現 埼玉県熊谷市)に県庁を置く「熊谷県(くまがやけん)」が誕生し、第1次群馬県は消滅した。
同時に、熊谷県庁の支庁が前橋城下に置かれる。
しかし、今度は高崎城下に支庁が移転した。
やがて明治9年(1876年)8月21日になると、熊谷県が廃止となり、熊谷県のうち第1次群馬県域だった地域と栃木県のうち東毛三郡、つまり上野国の範囲で新しい群馬県(第2次)が設置された。
これが現在の群馬県で、ほぼ現在の県域となった。
同時に県庁は、熊谷県庁の支庁があった群馬郡 高崎城下に置かれている。
明治11年(1878年)、群馬郡が東西に分かれ、高崎が西群馬郡、前橋が東群馬郡に属した。
なお、さきほど述べたように高崎城は兵部省が使用している。
そのため群馬県庁は高崎城下の寺院の空き部屋を借りるなどし、数ヶ所に分散している状況だった。
これを理由に、前橋側から県庁移転運動を展開。
そして、明治14年(1881年)に旧 前橋城にあった利根川学校(現 県立前橋高校)を移し、前橋の旧 前橋城の地に県庁を移転した。
高崎側からは、県庁の高崎へ再移転する運動が大正時代まで続いたが、現在まで前橋が県庁となっている。
群馬県の地名に関する情報
現在の庁舎所在地 | 前橋市 |
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地名命名パターン | 郡名由来 |
地名発祥時期 | 不明 (少なくとも古代には存在) |
現都道府県の設置時期 | 設置:明治9年(1876年)8月21日 県庁移転:明治14年(1881年) |
明治維新時のおもな管轄 | 【大名領】 前橋藩、高崎県藩、七日市藩、小幡藩、安中藩、伊勢崎藩、館林藩、沼田藩 【拠点が現 群馬県域外の大名領】 佐野藩、岩槻藩、大泉藩(松峰藩・庄内藩)、泉藩、淀藩 【その他】 旧 江戸幕府直轄地(岩鼻代官支配所)、旗本知行地、寺社朱印地など |
範囲内のおもな旧国 | 上野国(こうずけのくに) |
庁舎所在地の変遷 |
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参考資料
- 『日本歴史地名体系』(平凡社)
- 『古代地名語源辞典』楠原 佑介ほか(東京堂出版)
- デジタル標高地形図「関東」|国土交通省 国土地理院