東京都の地名は明治維新時に江戸を東京としたのがはじまり
東京の地名は
東日本における京のような中心的な大都市
という意味だ。
東京の地名が生まれたのは、明治維新のとき。
このとき江戸を東京に改称した。
記録が残っているから由来は明白。
慶応4年7月11日(1868年8月28日)、明治天皇の「江戸を東京と称す」という詔書により、江戸は東京都なったのだ。
これが地名として東京が誕生した瞬間となる。
この明治天皇の詔書の文章に、以下のような内容が書かれている。
「江戸は東国(東日本)第一の大鎮(だいちん=中枢となる大都市)で、各地から人や物の集まる要衝の地である」
このため、東京の意味は「東日本における京のような大都市」であるといえるのだ。
なお「江戸を東京と称す」の江戸というのは、江戸城下、つまり江戸の町のこと。
江戸という都市名を東京に改めた。
江戸改称の約3ヶ月前の4月に明治政府は、江戸城下を管轄していた幕府の組織「町奉行所(まちぶぎょうしょ)」を「市政裁判所」に改組。
そして翌5月に、市政裁判所をもとに「江戸府」を設置し、江戸の町を管轄していた。
7月に江戸の町を東京と改称したとき、江戸府も「東京府」に改称している。
その後、明治31年(1898年)5月1日に東京府が直轄していた区域(=おおむね最初のころの東京府の範囲)で「東京市」が誕生。
しかし昭和18年(1943年)7月1日に東京府と東京市が廃止されて、新たに「東京都」が設置される。
東京市だった区域は、都の直轄となった。
戦後の昭和22年(1947年)4月17日、東京都直轄の旧東京市の範囲が「特別区」という市町村に準ずる地方公共団体となり、22区が誕生。
いわゆる現在の「東京特別区部」である。
約4ヶ月後、板橋区から練馬区が分割され、東京特別区部は現在の「23区」体制になった。
東京という地名の誕生前後の流れ
東京都という地名の誕生までの流れを紹介する前に、ポイントを紹介したい。
まず、東京という名前の誕生には、以下の5人の人物が関わっている。
- 佐藤信淵 (学者)
- 大久保利通 (明治新政府)
- 前島密 (開成所 講師)
- 大木喬任 (おおき たかとう、明治新政府)
- 江藤新平 (明治新政府)
5人の人物のうち、佐藤信淵や大木喬任は知らない人も多いかもしれない。
実際、私も知らなかった。
あとで詳しく紹介したい。
そして、東京の誕生とその後の流れのポイントは、以下のとおり。
- 学者の佐藤信淵(さとう のぶひろ)が、江戸時代後期(文政6年)の自著『宇内混同秘策』で、全国を14の省に分け、江戸を「東京」、大坂(大阪)を「西京」とする、京・東京・西京の「三京」論を主張。地名としての「東京」を考案。
- 慶応4年4月、江戸城が無血開城され、江戸の町が戦火を免れる
- 明治新政府の樹立直後、大久保利通が大坂遷都論を提言
- 大久保に対し、前島密が江戸遷都論を提言
- 大木喬任(おおき たかとう)・江藤新平が、江戸を「東京」と定め、京・東京の「東西両京」論を提言
- 慶応4年5月、江戸城下を管轄していた町奉行を改組した施政裁判所をもとに、江戸府を設置
- 大久保が江戸を東京へ改称することを提言
- 慶応4年7月、天皇の詔書により江戸を東京に改称し、江戸を管轄する江戸府を東京府に改称。東京が初めて地名・行政機関名として使用される
- 最初は表記が「東京」「東亰」の2種類、読みも「とうけい」「とうきょう」の2種類あった
- 明治中期ごろに「東京(とうきょう)」に表記や読み方がおおむね統一される
- 明治31年、東京市が設置される
- 昭和18年、東京府・東京市を廃止し、東京都を設置する
- 昭和22年、特別区が設置され、いわゆる「東京特別区部」が誕生
順に追っていこう。
地名「東京」を発案したのは江戸時代後期の学者・佐藤信淵
東京の地名が誕生したのは明治維新のときと説明したが、実はそれよりも前に江戸を「東京」と呼んだ人がいる。
江戸時代後期の学者・佐藤信淵(さとう のぶひろ)だ。
思想家、蘭学者、儒学者、経世家(今でいう経済学者)、農政学者、兵学者、医師など幅広い顔を持つ人物である。
黒船来航の約30年前にあたる文政6年、自著『宇内混同秘策(うだい こんどう ひさく)』の中で江戸を東京、大坂(大阪)を西京とし、東京・西京の「東西両京」論を展開。
さらに国内を14の省(しょう)・府という区画に分けて統治するというものだった。
さらに、東京には「王城」を建てて全国を治めるというもの。
佐藤の「東京」の意味は東国の京という意味ではなく、元からある京(京都)から見て、東にあるから東京ということだろう。
同じく西京も京から見て西にあるから西京。
このときの東京の名は、あくまで書物の中だけで使用されただけであるが、これが東京の名称が使用された初めての例だ(東方の都という一般名称としての東京はのぞく)。
つまり、江戸が東京に改称された時代より早いものの、佐藤信淵が東京という地名の考案者であるといえる。
「三京論」は江戸幕府の老中・水野忠邦(みずの ただくに)も興味を示したが、結局、大政奉還・王政復古の大号令で江戸幕府は幕を閉じてしまう。
江戸城が無血開城され、江戸の町に被害がなかったことも改称のきっかけ
慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令により江戸幕府が終焉、明治新政府が樹立された。
慶応4年4月11日(1868年5月3日)、江戸城の無血開城が実現する。
実は、これも東京の名称誕生に関わる。
というのも、もし無血開城でなかったら新政府軍は江戸城を攻撃していた。
そうなると、多かれ少なかれ江戸の町は被害を受ける。
東京の名称誕生は、遷都(都の移動)と深い関わりがある。
江戸に被害があれば、遷都先にならなかった可能性がある。
江戸の町が戦火を免れたことも、東京の名称が生まれた重要なポイントだ。
明治新政府樹立直後の慶応4年に、江戸城下を管轄していた江戸幕府の行政機関「町奉行所」を「市政裁判所」に改組を経て、閏4月に市政裁判所に代わる「江戸府」を設置。
江戸府が江戸の町を管轄するようになった。
なお江戸府と同時に大坂城下に「大阪府」、京には「京都府」が設置されている。
明治新政府が樹立され、大久保利通が大坂遷都、前島密が江戸遷都を提言
慶応4年になると、当時政府の参与だった大久保利通(おおくぼ としみち)は、総裁の有栖川宮熾仁(ありすがわ たるひと)親王に、大坂城下への遷都を提言する。
遷都の理由は、以下のとおり。
- 京の1000年以上の古い因習が、新しい社会をつくるのに支障となる可能性がある
- 内陸の盆地である京より、湾岸で広い平地が多い大坂のほうが地の利がある
- 江戸幕府の西の拠点であったため、幕府時代の建物が流用できる
しかし、公家や京都住民などに反対派が多く実現できなかった。
だが大久保は大坂遷都への意欲は高く、天皇の「三種の神器」を伴った行幸(ぎょうこう・ゆき=天皇の外出)を実現させ、大坂遷都へ一歩駒を進めた。
天皇の大坂行幸の終わりごろ江戸城が無血開城している。
このタイミングで大久保の大坂遷都論に対し、開成所(旧 薩摩藩洋学校)講師の前島来輔(のちの前島密)が大坂遷都に反対、江戸遷都論を大久保に提言した。
- 大坂は道が狭く、港湾も大型船に向かず都とするには不向き
- 大坂は開発可能な土地が少ない
- 大坂は今後開発が必要な蝦夷地から遠い
- 江戸は幕府の建物が多く、流用がしやすい
- 今後開発が必要な蝦夷地を含めて考えると、江戸は東西の中央部に近い
- 大坂は自由な商業都市のため都にならずとも今後も発展するが、幕府を中心に発展していた江戸は今後何もしなければ衰退する
- 日本の東西のバランスを取るために東日本にも中枢都市が必要なので江戸を都にするのが適切
- 東北などの反新政府勢力に睨みを利かせることができる
これを受けて、大久保は江戸遷都に傾いていった。
なお、前島密はのちに郵便制度創設に尽力し「郵便の父」と呼ばれる人物である。
大木喬任・江藤新平が「東西両京」論を提言
前島の大坂遷都提言の翌月、慶応4年閏4月1日(1868年5月22日)に佐賀藩出身の江藤新平(えとう しんぺい)が佐賀藩の藩論として「東西両京」論を岩倉具視(いわくら ともみ)へ提言をする。
- 江戸を「東京」と「定め」、京とならぶ拠点とする
- 遷都はおこなわず、東西両京を天皇や首脳が定期的に行き来する
- 東西両京間を早期に鉄道で結ぶ
「東西両京」論は、いわゆる複都制といえる内容だ。
(もっとも江戸時代も天皇の京と幕府の江戸の複都といえるが……)
また、ポイントは「江戸を東京へ改称する」ではなく「江戸を東京と定める」という点。
あくまで改称ではなく、「東国における京のような町」と位置づける。
さらに遷都ではなく、2つの京を併存させることもポイント。
つまり、「大坂遷都」論のときに大反対があった京の住民らの感情を配慮しているのだ。
なお、この「東西両京」論は、江藤と同じ佐賀藩出身の大木喬任(おおき たかとう)が草案を作成した。
大木はあまり知られていないかもしれないが、文部大臣となり教育制度の拡充に尽力し、「明治六大教育者」の一人とされる。
さらに、東京への改名提案だけでなく、2代目の東京府知事にも就任しており、東京に縁がある人物だ。
また、江藤新平は大久保利通や木戸孝允(きど たかよし)らよりは知名度は低いかもしれないが、「維新十傑」として明治維新の中心人物の一人だった。
東京の誕生:慶応4年に天皇の詔書によって江戸を東京に改称
前島の「江戸遷都」論、大木・江藤の「東西両京」論を受け、大久保利通は江戸の東京への改称を提言する。
そして、慶応4年7月17日(1868年8月28日)、明治天皇が「江戸を東京と称す」という詔書を出す。
江戸という地名が「東京」に、江戸を管轄する江戸府という役所が「東京府」へ改称した。
これによって、東京の名称が初めて世に誕生したことになった。
大木・江藤の案では「江戸を東京と定める」であったが、結局江戸の東京への改称ということになった。
なお、大久保が東京への改称を提言したのは、江戸時代の『宇内混同秘策』の影響もあるといわれている。
東京の表記と読みは複数あって、統一されるまで時間がかかった
慶応4年7月に、江戸の改称によってついに誕生した「東京」という地名。
しかし、誕生したとき漢字表記と読み方には、それぞれ2とおりあり、統一されていなかったのだ。
- 「東亰」
- 「東京」
- 「とうけい」
- 「とうきょう」
なお、明治天皇の「江戸を東京と称す」という詔書では、漢字表記は今と同じ「東京」だ。
読みは指定されていない。
「亰」は「京」の異字体で、基本的には同じ漢字だ。
しかし、なぜ異字体を使うことが多かったのか。
実は、使用頻度は低かったかもしれないが「東京」という言葉には、単に「東方の都」を意味する一般用語の意味もあった。
それとの差別化の意図で、あえて異字体を使ったといわれる。
また読みかたは、詔書で指定していない。
そのため「とうけい」「とうきょう」のどちらとも読めるので、両方の読みかたがあったようだ。
ほかにも、東京は京(京都)とは違うという思いが強い人は、「東亰」の字を使い「とうけい」と読んだという説もある。
「東京(とうきょう)」の表記や読みの統一は明治時代後半から
統一されていなかった東京の漢字表記と読みかたは、明治後半ごろから現在の「東京」「とうきょう」に統一され始める。
きっかけは、学校の教科書が「東京」の表記と「とうきょう」の読みを採用したから。
なお、大正末期に開館した東京府美術館では一部「東亰」の字も使われていたことから、昭和前期あたりまでは、「東亰」の表記をする人もいたようだ。
ちなみに、東京府美術館の後身である東京都美術館では、入口上部に「東亰都美術館」の表記が残されている。
江戸城の名称の変遷(東京城〜皇城〜宮城〜皇居)
江戸の名称の起源は中世の「江戸郷」だが、江戸時代以降で一般的にいわれる江戸は江戸城の城下町のこと。
そうなると、江戸の町が東京に改称したならば、江戸城も改称したのかどうか気になるだろう。
実は、江戸城は江戸の東京改称と少し遅れて改称している。
きっかけは、明治天皇の江戸城への入城。
慶応4年7月11日(1868年8月28日)の明治天皇の「江戸を東京と称す」という詔書で江戸が東京、江戸府が東京府となってから約3ヶ月後だ。
なお、この間に元号が明治に改元されている。
京都から明治天皇が東京へ行幸を開始し、東京城に着いたのは明治元年10月13日(1868年11月26日)。
この日をもって、江戸城は「東京城」に改称した。
その後、いったん天皇は京へ帰り、明治2年3月28日(1869年5月9日)に天皇が2度目の入城をした。
このとき、江戸城は短期間で「皇城(こうじょう)」に改称する。
以降、天皇は皇城を拠点にした。
さらに明治21年(1888年)10月27日には、皇城から「宮城(きゅうじょう)」に改称する。
そして戦後の昭和23年(1948年)7月1日に、現在の名称である「皇居」となった。
東京市・東京都・東京23区の設置
東京市の誕生
東京府は広域自治体だ。
基礎自治体として「東京市」がかつて存在したが、時代は少しあと。
慶応4年5月に東京府(江戸府)が設置されたとき、範囲はおおむね江戸時代に「朱引内(しゅびきうち)」と呼ばれていた範囲。
つまり、ほぼ江戸城の城下町だ。
その後、周辺の町村をじょじょに東京府に編入し、範囲を拡大した。
明治4年の廃藩置県がおこなわれたが、東京府は継続。
また朱引の範囲が変更されている。
明治5年9月、さらに範囲が拡大し、東京府の範囲が現在の東京23区とほぼ同じ範囲となる。
しかし、明治11年(1878年)11月の郡区町村編制法の施行で、55区が再編される。
おおむね朱引内だった地域を15区に、それ以外の地域を6郡に分けた。
そして、明治22年(1889年)5月1日に市制・町村制施行を受け、東京府直轄だった15区をもとに「東京市」が誕生した。
ただし、同時期に誕生した東京市・大阪市・京都市の3市は、名称は市であってもほかの市と異なって、市制特例の市とされている。
そのため、府知事が市長を兼任したうえ、市の権限にも制限があった。
明治31年(1898年)になって市制特例が廃止され、ようやくほかの市と同等の市となっている。
その後は昭和7年(1932年)に隣接82町村を東京市に編入合併し、20区を新たに設置、35区体制となる。
またこのころに、東京市の人口は580万人を突破し、ニューヨークについで世界2位の人口をほこった。
ちなみに東京府は、明治26年(1893年)に北多摩・西多摩・南多摩郡の多摩三郡を編入し、ほぼ現在の東京都の範囲となっている。
東京府と東京市の廃止、東京都の設置
現在、東京を管轄する都道府県は「東京都」。
東京府ではない。
実は、戦時中の昭和18年(1943年)7月1日に、首都防衛体制の強化を理由に、東京府と東京市を廃止。
新たに「東京都」を設置した。
そして、東京市だった35区は東京都の直轄となったのだ。
東京特別区部(東京23区)の誕生
戦後、東京都直轄の35区が見直される。
昭和22年(1947年)3月に、35区が再編されて22区となる。
千代田 | 中央 |
港 | 新宿 |
渋谷 | 文京 |
台東 | 江東 |
隅田 | 目黒 |
品川 | 大田 |
世田谷 | 中野 |
杉並 | 豊島 |
荒川 | 北 |
板橋 | 足立 |
葛飾 | 江戸川 |
現在の東京23区から練馬区を除いたものだ。
翌月、昭和22年(1947年)4月17日に地方自治法が施行され、東京都制が廃止に。
22区が東京都の直轄ではなくなり、市町村に準ずる地方公共団体「特別区」として独立した。
この22の特別区の総称が、いわゆる「東京特別区部」などと呼ばれるものだ。
さらに約4ヶ月後の昭和22年(1947年)8月に、板橋区から練馬区が分立した。
これによって、東京特別区部は「東京23区」とも呼ばれるようになったのだ。
▲ちなみに、Googleマップでは「東京」として検索すれば東京特別区部(東京23区)全体を表示できる。
また各種地図などでは、東京都の都庁所在地は「東京」と表記されている。
「江戸」の地名は鎌倉時代初期が初見。入江の地形が由来
東京の旧称である「江戸」についても由来を紹介しよう。
江戸の地名は地形に由来している。
江戸の地名由来は、以下のとおり。
陸地に奥深く入り込んだ入江沿いの地
よく戸=入口ということで、入江の入口とする説があるが、これは少し違う。
「ト」は「戸」「門」などの字が当てられる古い言葉で、以下の意味だ。
- 山などに挟まれた狭い土地
- 陸地に挟まれた狭い水域
- 場所や土地の意味
江戸の場合、「江」がついているので戸は「陸地に挟まれた狭い水域」の意味である。
古い時代、現在の浜離宮から新橋駅〜日比谷公園を経て、東京駅西側・皇居外苑あたりまで、深く陸地に入り込んだ入江があった。
これが「日比谷入江(ひびやのいりえ)」。
この日比谷入江沿いの地域を「陸地に奥深く入り込んだ入江沿いの地」として「江戸」と称したのだ。
江戸の初見は、鎌倉時代初期の弘長元年(1261年)。
『関興寺(かんこうじ)文書』にある「豊嶋郡(てしまのこおり)江戸郷(えどごう)の内 前嶋村(まえしまむら)」とある。
実際は、それより前の時代には江戸郷は存在していたとも思われる。
平安時代前期に編纂された、全国の国・郡・郷を記載した『和名類聚抄(わみょう るいじゅしょう:和名抄)』の武蔵野国 豊島郡には江戸郷は載っていない。
そのため、江戸郷は江戸時代前期から鎌倉時代に移るまでのあいだに成立したと考えられる。
なお、「日比谷」の「日比」は「ヒビ割れ」のヒビの語源で、切り立ったがけのような地形を表す。
日比谷入江は、切り立った岸に入り組んだ入江のことを指したものだ。
その後、詳細は不明であるが、江戸を拠点としていた江戸氏が現在の皇居のあたりに居館を建てたという。
室町時代の長禄元年(1457年)、武将の太田道灌(おおた どうかん)が、江戸氏の居館を拡張して江戸城を築城した。
そして、城主が幾度か変遷し、戦国時代の天正18年(1590年)に豊臣秀吉の命によって徳川家康が江戸城主になる。
家康は入場後すぐ、城と城下の整備をおこない、江戸城下の基礎をつくった。
江戸時代になり、江戸城下はじょじょに拡大し、江戸後期には世界最大の人口を誇る都市にまで発展している。
東京都の地名に関する情報
現在の庁舎所在地 | 東京特別区部(新宿区) |
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地名命名パターン | 都市名由来 |
地名発祥時期 | 慶応4年7月17日 (1868年9月3日) |
現都道府県の設置時期 | 江戸府の設置:慶応4年5月11日(1868年6月30日) 東京府へ改称:慶応4年7月17日 (1868年9月3日) 東京都の設置:昭和18年(1943年)7月1日 |
明治維新時のおもな管轄 | 旧 江戸幕府直轄地 (町奉行支配地、江戸代官支配地)など |
範囲内のおもな旧国 | 武蔵国(むさしのくに)、伊豆国(いずのくに=伊豆諸島)、旧国未所属部(小笠原諸島) |
庁舎所在地の変遷 | 【東京府時代】
【東京都時代】
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参考資料
- 『日本歴史地名体系』(平凡社)
- 『古代地名語源辞典』楠原 佑介ほか (東京堂出版)
- デジタル標高地形図「関東」|国土交通省 国土地理院
- 歴史の謎を探る会『幕末・維新の日本史が2時間でわかる本 やっぱり激動の25年が一番おもしろい!』河出書房新社
- 『変貌 – 江戸から帝都そして首都へ -』国立公文書館
- 日本経済新聞 2019年8月8日『時を刻む』「明治元年、幻の大阪遷都論 大久保利通に前島密が反論」日本経済新聞社
- 『東京を知る』「明治東京異聞~トウケイかトウキョウか~東京の読み方」東京都公文書館
- 『首都機能移転問題と「東京遷都」』国土交通省 公式サイト