都道府県

【岐阜県】織田信長が城名とした古い地名。県名の命名経緯は不詳

岐阜県の県名は県庁の置かれる予定だった都市名から?

岐阜県の県名の命名経緯は、不詳である。

現在の岐阜県は、おおむね美濃国と飛騨国の2国域で構成されている(厳密にはわずかに隣国が含まれる)。

岐阜県の誕生の経緯を見ると、以下のようになる。

まず明治4年7月(1871年)に廃藩置県によって、美濃・飛騨両国に数県が設置された。

同年11月22日(1872年)には再編が実施され、美濃国一円の数県が合併し岐阜県を新設、羽栗郡笠松町(現 羽島郡 笠松町)の笠松陣屋跡に県庁を置く。

明治6年(1873年)3月に新県庁舎を厚見郡今泉村(現 岐阜市司町)に新設することが決定し、明治7年6月に新庁舎竣工により移転した。

ここで疑問なのは、明治4年11月の岐阜県新設時、羽栗郡笠松町に県庁が置かれたのに県名が岐阜県だったこと。

県庁のある都市名に由来するなら笠松県、県庁のある郡名に由来するなら羽栗県となるはずだ。

岐阜城・岐阜町の命名経緯の情報は多い(後述)のだが、岐阜県の命名経緯に関する情報は見つからないので、推定すると以下のとおりだ。

新設から約1年半後に県庁が移転したことから考えると、県新設の時点ですでに当時の厚見郡岐阜町(現 岐阜市中心部)へ新庁舎を設置する予定があったから、岐阜県と命名したのではないかと推測される。

しかし結果として、県庁は岐阜町の南西に隣接する今泉に移転した。
今泉は、江戸時代より岐阜町から街続きの町並が形成され、岐阜町とほぼ一体化していたので、新県庁舎の候補地になったのではないか。

なお、明治22年(1889年)4月に市制が施行されると岐阜市が新設され、岐阜町も今泉村も岐阜市の一部となった。

岐阜という地名の成立について

岐阜県の成立時にあった厚見郡 岐阜町は、現在の岐阜市中心部に相当する。

岐阜町の地名は、戦国時代〜安土桃山時代に岐阜城の城下町だったことが由来。

岐阜城は江戸時代初期に廃城になったが、岐阜の地名は残った

江戸時代初期、岐阜町は江戸幕府直轄地(天領)となる。
さらに周辺の幕府の直轄地を管轄する奉行が派遣され、奉行所が設置されて陣屋町となった。

しかし十数年後、尾張名古屋藩領となり、幕府の奉行所は現在の可児市内へ移転。
尾張藩の岐阜奉行所が新たに設置され、藩から派遣された岐阜奉行が統治する。

以降、幕末まで尾張藩の岐阜奉行が支配し、岐阜町は岐阜奉行所の陣屋町として繁栄した。

岐阜の名前は織田信長の岐阜城命名が起源とされるが、実はその前からあった

岐阜の町の地名由来となった岐阜城だが、もともとは岐阜城という名前ではない。

もともと岐阜城のある金華山のあたりは「井ノ口(井之口、井口)」と呼ばれていたので、「井ノ口城(井之口城、井口城)」と呼んでいた。

また城のある金華山は、かつて稲葉山と呼ばれていたことから「稲葉山城」「稲葉城」とも呼ばれた。

さらに金華山にちなんで「金華城」「金華山城」の別名もあったといわれる。

城は鎌倉時代初期の建仁年間(1201〜1204年)に、二階堂行政が築城したとされる。

その後は城主は移り変わり、戦国時代には斎藤道三が城主となり、城下町が整備された。

さらに永禄10年(1567年)には織田信長が城主になり、安土城を築城するまで天下統一のための本拠地とする。

このとき、織田信長によって城の名前を岐阜城へ改称された。
城下町も本格的に整備され、城下も岐阜と呼ばれるようになる。

信長が岐阜城の名前を決めた経緯は、延宝7年(1679年)に書かれた『安土創業録』という書物で記されている、以下のような説がよく聞かれる。

信長の参謀的な存在だった僧侶・沢彦 宗恩(たくげん そうおん)が示した「岐山(きざん)」「岐陽(きよう)」「岐阜」3つの候補のなかから、信長が選択した。

「岐山」は中国の「周の文王、岐山より起り、天下を定む」という故事に由来。

「岐陽」は、岐山の南の地域のこと。
周の成王が奄(えん)を討った帰りに、岐陽で諸侯を集めて狩りをしたとされている。

「岐阜」は岐山の「岐」と、孔子の出生地である曲阜の「阜」を組み合わせたものとされる。

いっぽうで『土岐累代記』という書物では、古くから岐阜という地名は使われていたことが記されている。
とくに明応期(1492〜1501年)〜永正期(1504〜1521年)ごろは、よく使われていたとのこと。

もともと岐阜等地名は、金華山一帯を指す汎称地名だったようだ。
汎称地名とは、複数の地域を総称した地名のこと。

岐阜と呼ばれていた地域には今泉(現 岐阜市司町周辺)・忠節(現 岐阜市忠節町周辺)・井ノ口(のちの岐阜町)・宗田などの村があった。

また現在の岐阜市正法寺町にあった革手城(川手城)は、一時岐阜城とも名乗ったことがある。

このことから、信長が沢彦の提案の中から選んだという説はもっとも有名であるが、説話である可能性が高い

真相は、信長が城主になったときに、城の名前に古くからの汎称地名「岐阜」を採用したということだろう。

岐阜という地名の由来は?

岐阜は信長統治以前から存在した地名であるが、由来は何なのだろうか。
古い地名は、地形に由来するものが多い。

岐阜という漢字の字面どおりの意味だとしたら、「岐」は「分かれ道」を意味し、「阜」は「小高い土地」を意味する。

金華山周辺は長良川をはじめ、複数の川が流れ、合流している。

昔はもっと複雑に合流・分岐していただろう。

このように河川が流れる地にある小高い土地、たとえば自然堤防や扇状地などの地形を表したものかもしれない。

岐阜という漢字が当て字だった場合は、古代からあった地名の可能性がある。

「キ」は「断絶」「切れ目」などを意味し、「フ」は「フス(伏す)」の略で「傾斜地」、または「フケ」の略で「湿地」を意味すると推定できる。

まとめ

岐阜の地名に関することは少しややこしいので、再度まとめてみよう。

岐阜県の県名について
  • 廃藩置県後、明治4年11月22日(1872年)に美濃国一円の数県が合併して岐阜県が成立
  • 県庁は羽栗郡笠松町(現 羽島郡 笠松町)の笠松陣屋跡に設置
  • 明治7年(1874)6月に新県庁舎を厚見郡今泉村(現 岐阜市司町)に新設・移転
  • 羽栗郡笠松町が県庁なのに、羽栗県や笠松県ではなく岐阜県と命名した経緯は不詳
  • 当サイトの推測では、笠松に県庁を置いたのは暫定的なもので、いずれ厚見郡岐阜町(現 岐阜市中心部)に県庁を置く予定だったので岐阜県としたが、結局は岐阜町の隣・今泉に移転した
岐阜という地名の由来について
  • 岐阜町の名は、戦国時代に岐阜城の城下町だったことが由来
  • 岐阜城は江戸時代初頭に廃城になったが、岐阜の町の名は存続し、天領時代は幕府の岐阜奉行所、尾張藩領時代は尾張藩の岐阜奉行所陣屋町として栄えた
  • 岐阜城は永禄10年(1567年)には織田信長が城主になったとき、信長によって旧来の城名から岐阜城へと改称した
  • 岐阜という地名は、信長が城主になる以前から岐阜城のある金華山周辺の汎称地名として存在した
  • 岐阜という地名がいつごろ生まれたのかは不明だが、古い地名なので地形由来の可能性がある
  • 一般的に知られている「沢彦 宗恩(たくげん そうおん)が示した岐山・岐陽・岐阜の3つの候補のなかから、信長が選択した」という説は、説話であると考えられる

四年七月の廃藩置県により、美濃・飛騨両国に笠松・高山二県のほか、大垣・加納かのう・今尾いまお・野村のむら・高富たかとみ・郡上ぐじよう・岩村いわむら・苗木なえぎの八県が置かれ、名古屋・犬山・岡田おかだの国外三県の管轄地を加え一三県が設置された。しかし、同年八月、苗木県から、狭小な県に官庁を設けることは国益に反するという廃県の建議が提出されているように、政府も小県乱立の状態を放置するわけにいかず、同年一一月、高山県の筑摩県編入も含めて二回にわたり、府県の統廃合が行われた。その結果、同月二二日美濃国一円を管轄地とした岐阜県が誕生した。

岐阜県の地名に関する情報

現在の庁舎所在地 岐阜市
地名命名パターン 不詳(推定:県庁設置予定の都市名由来か?)
地名発祥時期 不明(少なくとも室町時代には汎称地名として存在)
現都道府県の設置時期 明治4年11月22日(1872年)
明治維新時のおもな管轄 尾張名古屋藩
江戸幕府直轄地
ほか
範囲内のおもな旧国 美濃国(みののくに)、飛騨国(ひだのくに)、信濃国(しなののくに)のごく一部
庁舎所在地の変遷
明治4年11月22日(1872年)〜
羽栗郡笠松町(現 羽島郡 笠松町)
明治7年(1874年)6月〜
厚見郡 今泉村(現 岐阜市)

参考資料

  • 『日本歴史地名体系』(平凡社)
  • 『古代地名語源辞典』楠原 佑介ほか(東京堂出版)
  • 『大日本地名辞書』吉田東伍(冨山房)