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【埼玉県】地名由来は県庁予定だった地の郡名。古代からの地名で湿地・水辺を意味する

埼玉県の県名は県庁設置予定地の郡名から

埼玉県の県名は、設置前に県庁を置く予定だった町が所属していた郡名に由来している。

というのも、埼玉県は設置直前に県庁を置く町が変更になっていたのだ。

明治4年7月の廃藩置県で、現在の埼玉県域には20の県が混在していた。
そこで約4ヶ月後の明治4年11月に統合がおこなわれ、武蔵国の中部を中心に浦和県(設置時の名は大宮県)・忍県(おしけん)・岩槻県3県を統合することになる。

県庁は埼玉郡(さいたまぐん) 岩槻城下(のちの岩槻市、現 さいたま市岩槻区)に県庁を置くことになり、県名は郡名を取って「埼玉県」とした

しかし、直前になって足立郡(あだちぐん) 浦和町 (のちの浦和市、現 さいたま市浦和区中心部)の旧 浦和県庁舎を新県庁とすることに変更した。

『日本歴史地名体系』によれば、県庁予定地の変更理由は「県庁として適切は場所を得られない」とのことだ。

また理由は定かではないが、浦和を県庁として発足後も埼玉県の名称は変更されず、そのまま現在に至っている

その後、幾度かの県域の変更がおこなわれた。

そして、2001年(平成13年)5月1日に浦和市・大宮市・与野市の3市が対等合併し「さいたま市」が新設され、さいたま市が埼玉県の県庁所在地となった

2005年(平成17年)4月1日には、当初県庁が置かれる予定だった岩槻市もさいたま市へ編入合併し、さいたま市の岩槻区となっている。

なお、岩槻はかつて岩槻城城下町として栄えた町だ。
岩槻城は、岩槻大名領(岩槻藩)の拠点となっていた。

いっぽう浦和は、中仙道宿場町浦和宿として栄えた町である。
江戸時代は幕末をふくめ大半の時代が江戸幕府直轄地だった。

埼玉郡は古代からあり、郡内の「埼玉郷」に由来

埼玉県の県名の由来となった埼玉郡。
実は、埼玉郡は古代から存在する古い地名だ。

そして埼玉郡の郡名は、埼玉郡内にあった「埼玉郷」に由来している。

平安時代前期に編纂された、全国の国・郡・郷を記載する書物『和名類聚抄 (わみょう るいじゅしょう:和名抄)』にも埼玉郡 埼玉郷が載っている。

和名抄によれば、「埼玉」の読みは今と同じ「さいたま」。
いっぽう『万葉集』や『延喜式神名帳』などでは「さきたま」と読み、2とおりの読み方があった。

もともとは「さきたま」だったが「さいたま」に読みが変化していったようだ。

漢字表記もいくつかあり、「前玉」「佐吉多万」などがある。

埼玉郷は、現在の埼玉県行田市南東部にある埼玉(さきたま)地区周辺にあたり、古代の郷名が現在も残っている。

埼玉地区周辺には「前玉神社 (さきたま じんじゃ)」や「埼玉(さきたま)古墳群」があるなど、古代に有力な勢力が拠点にしていたことがわかる。

前玉神社は、古代の有力神社を記載した書物『延喜式神名帳』に載る歴史ある神社だ。

埼玉古墳群は、ワカタケル(雄略天皇)の名が彫られた剣が出土し、雄略天皇の実在を示すものとして知られている。

なお埼玉郡は、平安時代末期に東西に分割され、「埼東郡(きとうぐん:崎東・騎東・寄東などとも表記)」「埼西郡(きさいぐん:崎西・騎西・寄西などとも表記)」になった。

しかし、江戸時代前期に再びひとつの埼玉郡に統合されている。

明治12年(1879年)になると郡区町村編制法の施行を受けて、今度は南北に分かれ、「北埼玉郡」「南埼玉郡」となった。
当時、埼玉郡は南北に長く、面積が非常に広大だったためとされる。

埼玉の地名発祥地である「埼玉 (現 行田市埼玉)」は北埼玉郡、埼玉県の県名の由来となった岩槻(現 さいたま市岩槻区)は南埼玉郡に属した。

埼玉の地名は湿地や水辺を表したもの

埼玉県や埼玉郡の地名の元となった埼玉郷の由来は何か気になるところ。

『古代地名語源辞典』によれば、埼玉の地名は地形に由来している。

古い地名の漢字は、当て字のことが多く、漢字どおりの意味ではない。

埼玉は、もとは「さきたま」と呼んでいた。

「さき」は「」という意味。
「たま」は「溜まる」が変化したもので、水気を含んだ土地=湿地や、川や湖沼などの水域を指す。

つまり「さきたま」とは「湿地のそば」「湿地帯の端」「川や湖沼のへり」「水辺」などの意味の地名なのだ。

また「たま」は「回む(たむ)」の変化したものという可能性もあるという。
回むとは、川や道などが湾曲していること。

「さきたま」は「湾曲した川のそば」という意味も考えられる。

ここで、行田市埼玉地区の地形を思い出してみよう。

埼玉地区とその周辺一帯は、荒川と利根川に挟まれた平野で、支流や水路が流れている場所だ。
いわゆる氾濫原という地形で、治水技術が発達していない時代は河川の氾濫もあったと推測される。

そのため埼玉地区周辺は湿地帯だった可能性が高く、湖沼もあったことも考えられる。
また、河川は今よりも湾曲して流れていただろう。

埼玉地区から約2kmの行田市中心部にある忍城(おしじょう)は、別名「水城(すいじょう、みずしろ)」と呼ばれ、湿地の地形を利用した城だった。

さらには、『万葉集』には「前玉之小埼乃沼 (さきたま の こさき の ぬま)」や「佐吉多万能津 (さきたま の つ)」などの記載があり、『日本歴史地名体系』では行田市周辺の湖沼内陸港を指すとしている。

これらのことから、埼玉周辺が湿地だったことがわかり、湿地を利用して水田を開墾したり、湿地にある自然堤防のような微高地を利用して集落を形成したものと思われる。
そして、これらのことから埼玉の地名が生まれたのだろう。

なお、『日本歴史地名体系』や 『古代地名語源辞典』によれば、埼玉の地名由来説には他説もある。

ひとつは「多摩の先」という意味という説。
同じ武蔵国の多摩郡の北の方に位置しているので、多摩の先の方にある地域という意味だそう。
しかし同じ武蔵国といえど、多摩の先というにはかなり遠い。
しかもなぜ多摩が基準なのかなどの疑問も多い。

もうひとつが「幸魂」説。
「さちたま」が「さきたま」に変化し、さらに「さいたま」となったというもの。
しかし、これは単なる語呂合わせによる説話的なものに過ぎないようだ。

こうして点から、埼玉の地名由来は、湿地や河川・湖沼など水辺に関する地形にある可能性が高いと考えられる。

埼玉県の地名に関する情報

現在の庁舎所在地 さいたま市
地名命名パターン 郡名由来
地名発祥時期 不明 (少なくとも古代には存在)
現都道府県の設置時期 設置:明治4年11月14日(1871年12月25日)
県庁所在地変更:2001年(平成13年)5月1日 (さいたま市新設のため)
明治維新時のおもな管轄 【現埼玉県域内に拠点があった領地】
岩槻藩
川越藩
忍(おし)藩
旗本知行所
寺社朱印地
など

【現埼玉県域外に拠点があった領地】
武蔵 六浦(むつうら)藩
上野 前橋藩
上野 高崎藩
下野 足利藩
上総 久留里(くるり)藩
下総 佐倉藩
下総 古河(こが)藩
常陸 下妻藩
常陸 龍崎(りゅうがさき)藩
陸奥 泉藩
三河 半原(はんばら)藩
旧 江戸幕府直轄地(武蔵 江戸代官支配所、上野 岩鼻代官所配所、伊豆 韮山代官支配所)
など
範囲内のおもな旧国 武蔵国(むさしのくに) 中〜北部
庁舎所在地の変遷
北足立郡 浦和町 (のちの浦和市、現 さいたま市)
明治4年11月14日(1871年12月25日)〜
さいたま市
2001年(平成13年)5月1日〜
(浦和・大宮・与野3市により新設合併)

参考資料